2011 5 震災のこと

 「国難」という言葉が真実味を帯びて迫ってきたのは、生まれて初めての経験でした。日常の、当たり前だと思っていた快適な生活が、こんなに壊れやすいものだったのかと、感じざるを得ませんでした。本当にこれは現実なのかと、ぼんやりしてしまう事もありまして、それは僕に限らず多くの人が、そうだったのじゃないかと思います。

 あれから二ヶ月と少しが過ぎました。自粛ムードが一時期ありましたが、過度の自粛は経済の停滞を招くし、今まで通り消費する方が、被災地への援助にもつながる、といった考え方が浸透しているようで、僕が住む東京は、節電の影響はありますが、震災以前よりも活気がなくなったとは特に感じません。「がんばろう、日本」「ひとつになろう、日本」というような言葉が、テレビや店先の看板等で多く使われ、復興に前向きに取り組もうという姿勢を見る事が出来ます。

 日本人についてある雑誌では「器用で我慢強く、向上心旺盛な勤勉な国民」という風に評してあり、また日本という国については「絶えず地震や台風の危険にさらされてきた国で、何度も苦難に耐える事を運命づけられた国」と書き、だからこそ日本人には「この苦難も乗り越えられる強さがある」と述べておりました。こういった言葉も、復興へ向かう人々の背中を押したように感じます。

 僕は今回の震災という出来事を、どういう風に解釈したら良いのか正直言って分からなくて、報道や雑誌等の記事を読みながら考えるしか出来なかったのですが、そういう状態で僕自身が問われたのは、夏に予定している芝居の公演の事でした。当初は計画停電が夏に都心でも行われるという話だったので、何らかの影響はまぬがれないと思えたからです。例えば大きな余震が東京で起きて、中止せざるを得ない状況になったらすごく残念だと思い、言い換えれば、やれる状況にあるならば、必ずやろうと思っていました。震災に立ち向かっている、原発の作業員や自衛隊やレスキュー隊の方々と同じように、と書くのはおこがましいし、立場が大きく違いますけれども、自分なりに震災に立ち向かうという意味でも、公演を打つ事は間違っていないと思えたのです。

 いま世間には、復興ムードが漂い始めた気がします。しかしひとつ引っ掛かるのは、これも雑誌で読んだ、ある被災者の方を取材した記事の事で、その内容は「これまでの人生で積み上げてきたものが一瞬のうちに破壊され、社会に広がる復興という名の下に、それらが跡形もなく持ち去られてしまう」といったものでした。世の中の「一刻も早く復興を」という空気というか、その速度に、ついていけるはずのない方も、多くいらっしゃるに違いありません。

 テレビではよく、被災者を励ます芸能人の姿が流れていました。ある芸能人は、「偽善だと言われようが、みんなで一致団結して、被災地をとにかく応援する」と話していました。その考え方は正しいと思います。正しいのですが、僕が考えてしまったのは、もし仮に自分が被災していて、悲しみのなかにいると想像したなら、「がんばろう」「ひとつになろう」「元気を出そう」とか、軽々しく口にして欲しくないと思うんじゃないか、という事でした。自分が苦しんでいる時に、そちら側の都合いいタイミングで、きれいごとのような言葉を掛けられるのは、僕は嫌です。芸能人が励ましに行っても、全員が励まされる訳ではなくて、人によって、励まされる、という事だろうと思いました。

 夏の公演台本の、後半部分を書いている時に地震が発生したのですが、それから一週間位は台本を書く手が止まりました。震災によって、自分を含めた世の中の人々の考え方や感じ方が、大きく揺さぶられたような気がしたのがその理由です。少し冷静になってから、元にあった構想通り、書き進める事を決めましたが、今までの考え方や感じ方、また生き方を、一度見直してみる事は、必要であるようにも感じました。たった二ヶ月前の事なのに、最近の出来事という気が何故かしません。東京は非常事態という程ではありませんでしたが、非日常的な状況に、数日間あったと思います。何か大変な事に直面した時にどう行動するか、という所に、その人の本性が見えるのだと思いますが、その非日常的な数日間、少しぼんやりしながら、他人の困難を考える人の姿、逆に自分の事ばかり考える人の姿を、僕は見た気がします。色々と考えさせられる出来事が起きたので、これからも考え続けていこうと思っています。