2018 2 菅間馬鈴薯堂の稽古Ⅱ

●台本にたいして

 ぼくたち(観客)はいま、演劇(作品)の余りに任意過ぎる物語性から意識的に遠ざかりたいという願望を心の底に秘めながら芝居を鑑賞している。(中略)社会的な主題が織り込まれた世にいう優れた演劇がいかに空疎でつまらなく説教臭いものであったのかを充分に知らされてきたし、また逆に面白い物語を内在している舞台を見てもその舞台から演劇性(ひとが演じることの根拠)の薄弱さをいやというほど思い知らされているからだ。(菅間馬鈴薯堂通信 第十九号)

 演出の言葉を少し挙げます。
「小説や映画など色んなものに演劇は侵食され、かろうじていま演劇に残された部分は、人と人がちゃんと話すということ。人間をどう見せるかが、演劇の最後の砦」
「台詞には、話やテーマの情報だけではなく、『人間として』の情報がなければいけない。観客が聞きたいのは、解説のような言葉ではなく、その人の寝言のような言葉」
 「物語」には、たとえば人情劇ならヒューマニズムがぬりこめられた枠組みが、世の中を風刺する劇なら反倫理や露悪がぬりこめられた枠組みが存在すると考えられますが、演劇は、その枠組み(物語性)に取りこまれてはいけないんじゃないか、また俳優は、枠組みのなかに配置された役割人形になってはいけないんじゃないか、ということが語られています。でもそれは、枠組みなんか不要だという意味ではありません。僕たちが毎日生きていくうえで、現在の社会に存在する枠組み(高度に制度化された社会システム)を無視する事は不可能であるのと同じように、作品の基層となる部分において、枠組みは必要であると言えます。しかしその上でさらに必要なのは、枠組みを越え、物語の次元を超えようと試行することです。僕の主観的な解釈になりますが、「観客が聞きたいのは、寝言のような言葉」を言い換えれば、「観客がみたいのは、無意識から表出されたほんとうの言葉が、枠組みの上を飛翔していく姿」になるかと考えられます。枠組みは大事ですが、もっと大事なのは、枠組みはほんとうの言葉によって凍らされ、解体されても良いという考え方を、持つことのように思います。

●演劇は「詩」に近づいている

 芝居は「物語」の風下にいつまで立っていなければならないのか、という焦燥感。いま劇は「詩」に近づきたがっているという表象(演技)の純化への希望。もちろんこの重なり合った課題はぼくの妄想に過ぎませんが、そんな心の底から湧き昇ってくる妄想(ぼくの未知への芝居へ哀しい見果てぬ夢)を、かなぐり捨てて芝居らしい芝居を作っても、ぼくには芝居を作ったことにはなりません。(第36回公演「光合成クラブ·Ⅱ ~男のいない女たち~」当日パンフ挨拶文より)

 詩に関して深い知識が僕はあるわけではないので、見当をつけながらになりますが、「劇は『詩』に近づきたがっている」とはどういうことかを考えてみたいと思います。詩の言語について書かれた文章を引用します。

 わたしたちは、詩がうまくかきおわったとき、散文である事実をうまく指示したときと比較にならない充実感または空虚感をもつ。(中略)この充実感や放出感は、憑いた感じに似ている。神憑ったのでもなければ、狐が憑いたのでもなく、イデオロギイが憑いたのでもなく、自然が憑いたのでもなく、自己が自己に憑いた感じである。(中略)
 一般的にいえば、人間はその原始社会において何らかの矛盾をもつようになったとき、意識の自発的な表出が可能になったとみることは成り立ちうることである。まず、社会的な矛盾は、意識のしこりをあたえ、しこりが意識の底までとどくと、意識は何かの叫びのようなものを自発的に表出する。もちろん、この場合わたしたちが充足感や快感とかんがえているところは、しこりの裏側にほかならないともいえる。(吉本隆明「詩とはなにか」)

 僕たちが生きていくうえで、周囲になにか矛盾を感じたり、自分を見失いそうになったりしたとき、心のなかに、言葉にならない叫びのようなものを抱えこみます。自分のなかに押しこんで、心の奥に眠らせたそれらを、呼び覚まし、はき出すように、詩の言葉は書かれるのだと考えて良いかと思います。
 次に、詩の(美や芸術性を成立させている)要素についての文章を引きます。

 ぼくの言い方では、まず「場面」の問題があります。
 この作品はいったい何を書いているんだ、どういう場面を描いているんだ、という問題です。
 詩でいえば、島崎藤村の「初恋」はどういう場面を書こうとしているのか。いうまでもなく初恋という場面です。それがモチーフになっている。
 すると、次に「場面の選択」がきます。場面を選ぶ、ということ。これは大きな場面のなかの小さな場面転換と言い換えることができます。「初恋」のような四行詩だったら、場面転換はその途中にくる。つまり、この行の次の行にはどういう言葉をもってくるかという問題です。技術的にはそう考えればいい。
 場面転換には作者の個性的な癖もあらわれますが、こうしたほうがいい作品になるぞという作者の芸術観もあらわれます。(中略)
 そして、これは詩に特有のことになりますけれども、転換が極まるところは何であるかといえば、それは比喩です。直喩とか暗喩といわれる比喩の仕方が転換のもっとも濃縮した場所になります。(吉本隆明「日本語のゆくえ」)

 まず、ある「場面」が選ばれて(それを描くための言葉が選ばれて)詩は書かれ始めます。そして、その次の行はどういう言葉が選ばれて書かれているか、それからまた次の行はどういう言葉が選ばれているかといった、作者の表出意識の「転換」の仕方が、読者に良い詩だと感じさせる、詩の大切な要素だと考えられています。「転換」を具体的にみていくために、宮沢賢治の「永訣の朝」という詩の冒頭を引きます。(永訣はエイケツと読み、永遠の別れという意味です)

きょうのうちに
とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまえがたべるあめゆきをとろうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのように
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

 妹と永訣する直前の様子が書かれた詩で、選ばれている場面は、亡くなる当日の朝になります。

「きょうのうちに/とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ」
 作者の視線(表出意識)は目の前の、病床にふす妹におかれています。

「みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ」
 作者の視線は、白いみぞれが降り積もる、病室の外へと移ります。

「(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」
 妹が兄(けんじ)に岩手弁で「あめゆき(雨雪)を取ってきて」とお願いする言葉です。作者の意識は室内に戻り、自分に頼みごとをする妹の声を聴きます(あるいは、思い出しているとも考えられます)。外から室内へと場所が転換すると同時に、視覚から聴覚へと感覚が転換して表出していると言えます。

 「うすあかくいっそう陰惨な雲から/みぞれはびちょびちょふってくる/(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」
 妹の言葉を受け、再び意識は勢いよく外へ飛んでいき、空の模様を見つめ、みぞれが地に落ちる音を聴きます。そして心のなかで、妹の頼みごとを反芻します(表出の位置は、屋外と心の内と、二重になっていると考えられます)。

「青い蓴菜のもようのついた/これらふたつのかけた陶椀に/おまえがたべるあめゆきをとろうとして」
 作者は蓴菜(池沼に生える水草)の絵柄のある、兄妹が使っていた欠けた茶碗に視線をおき、それを手に持ちます。 

「わたくしはまがったてっぽうだまのように/このくらいみぞれのなかに飛びだした/(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」
 作者は外へ(表出意識もそれに連れだって)飛びだします。単に「大急ぎで飛びだした」と書かずに、「まがったてっぽうだまのように」という直喩が使われていますが、それによって、白くて暗い世界に放たれた鉄砲玉のイメージが与えられ、(「まがった」とあるので)急ぐあまり雨雪に足を滑らせる、あるいは、悲しみのあまり足がよろめくといった、意味が加えられていると言えます。

 以上、詩の「転換」を具体的にみてきました。僕は初めてこの詩を読んだとき、(この兄妹がどうなっていくか見届けたいという)気持ちが前のめりになって読むような、読みの体験をした覚えがあります。とくにこの冒頭は、兄の行動を思わず追いかけるようにして読みましたが、それはこの詩が作者によって、読者にそういう体験をさせるよう、「転換」の仕方がなされているのだと考えられます。詩に限らず、たとえば面白い小説は、(どう展開していくんだろう?という)スリリングさや、(何が起こっているんだろう?という)謎解きに似た興味を感じさせ、読者をその世界へと連れ去りますが、それも、作者の「転換」の仕方によるものと言えるかと思います。小説に用いられる散文では、事物の詳細や出来事の複雑な意味等を、多くの言葉で表現できますが、(散文と比較して)少ない言葉で表現される詩に特徴的なのは、さきに「自分のなかに押しこんで、心の奥に眠らせたそれらを、呼び覚まし、はき出すように」と述べたように、言葉を選ぶとき、(即する言葉を探しもとめて)言葉を選択する力が強くはたらいているということです。選択力の強い言葉で、「転換」し、「比喩」をつくるのだと考えられます。
 では、「劇は『詩』に近づきたがっている」について考察してみます。以下に馬鈴薯堂の台本を少しだけ引きます。第35回公演「踊り子」の、二人の歩哨(1)という場面です。(芝居の後半に入った位の場面で、この場面の前までずっと、舞台の場所は宿屋の一室で、登場人物は宿屋に関係する人達でしたが、照明の暗転を挟み、音響で「戦場のメリークリスマス」が流れ、唐突に場面が次のように転換します)

 脱走兵(三八式歩兵銃)、花道より出てくる。
 二人、楽しそうに「兵隊ゴッコ」をする。
 二人、楽しそうに、舞台中央に、立つ。

兵 ①  ……星がキレイだね、
兵 ②  ……キレイ、
兵 ①  天井に空いた穴ぼこが、無闇にゴーンと光ってる。穴ぼこの向こうに、もうひとつの巨大な光の源(みなもと)があって、穴から、その光が放たれてる。
兵 ②  星なんか、ゆっくり眺めないね、
兵 ①  秋の夜空は、明るい星があまりないね、赤い色の星とか、
兵 ②  ……ペガスス座。……アンドロメダ座、
兵 ①  へえ、
兵 ②  ……ペルセウス座、……カシオペヤ座、
兵 ①  憶えきれない、そんないちどきにいっぱいの名前、
兵 ②  もうじき北の空から、流れ星が流れてくる。
兵 ①  オリオン座流星群、
二 人  (三八歩兵銃を握り点呼の様式を創り)……点呼!
兵 ①  フタヨンマルマル時! 南の空、大きく異常ありません!
兵 ②  フタヨンマルマル時! 北の空、大きく異常ありません!
兵 ①  (兵②へ報告)報告します! 向こうから、ぷるぷるぷるぷる、ぷるぷるぷるぷる、たくさんの蟻の兵隊が走って来ます。……(蟻の兵隊に向かって)停まれ、貴様、誰かッ!
兵 ②  第百二十八聯隊(れんたい)の伝令です!
兵 ①  どこへ行くか!
兵 ②  第五十聯隊、聯隊本部!

 「脱走した二人の兵士」というのが選ばれた場面です。そのなかでの小さな場面転換を(公演の記録映像で確認しながら)観客の視点で書いてみると、以下になります。

1. 二人の若い兵士(雑兵の軍服を着ている)が長い銃を抱えて、花道から行進して来る。
2. 二人、舞台中央に立って、緊張の面持ちで正面を見る(無言で10秒位)。
3. 銃をそれぞれのかたわらに置き、見つめ合う。表情は少し緩む。(無言で5秒位)。
4. 正面に向き直り、「ハイッ」という合図で、組体操の技を三つ、笑顔で演じる。(ト書きには「兵隊ごっこ」とありますが、稽古中に組体操に変更しました)
5. 夜空を見上げて穏やかに、嬉しそうに星の話をする。
6. 置いてあった銃を手に取って、点呼の体勢になり、真剣な顔付きでお互いに大声で報告し合う。

 二人の兵士の身体の状態、表情、声の変化が軸となって、場面が転換されています。
 詩や小説では作者は、言葉をどうもっていくかという「転換」の仕方によって、良い読書体験を求める読者にこたえようとしていると言えますが、演劇も同じように考えてみれば、(視る楽しさ、聴く楽しさが得られる)良い観劇体験を観客は求めていて、作り手はそれに、演技(俳優の声、身体、呼吸)の「転換」の仕方によって、こたえようとしていると考えて良いかと思います。おそらく、「劇は『詩』に近づきたがっている」とは、詩が、言語の選択力を強くはたらかせて表現されていることに、演劇は近づこうとしているということで、つまり、演技をどうもっていくかという、演技を選択する力を強くはたらかせて、演劇は表現されようとしているということです。そして、その「選択力の強い演技」を試行錯誤しながら見付けようとする(選び直していく)場所が、稽古場であるかと思われます。

●最良の稽古場とは

 それでは、馬鈴薯堂の稽古場の実際の姿を少し書いてみたいと思います。

 いちばんダメな演出は、じしんの演出イメージを固定化し現実の息吹きを受け入れないことだ。稽古場での俳優は生きている現実そのものであり、演出家の演出イメージは観念の独りよがりの独走だ。演出はじぶんのイメージを生きている俳優にぶつけ、かれらに壊され、振り出しに差し戻され、再度イメージを構成し直して稽古場へ向かう。これが本来あるべき最良の稽古場の姿だ。(菅間馬鈴薯堂通信 第十二号)

 前章で「『選択力の強い演技』を試行錯誤しながら見付け直す」と述べましたが、それは俳優だけの仕事ではなく、もちろん演出も同じというのが馬鈴薯堂の考え方で、台本も、稽古の実情をみて直されていきます。具体的にみていくために、文章で再現するのは難しいとは思いますが、昨年の冬公演「光合成クラブ·Ⅱ」の、僕が出る場面の稽古のことを、台本を少し引きながら書いてみます。舞台はクリスマス・イブの夜の公園で、女性四人(友子43才、実子66才、南34才、愛美25才)が呑み会をしているところに、僕の演じる「踊る男」が、上は黄色いカーディガン、下はブルマという、見るからに怪しい出で立ちであらわれる場面です。(稽古期間は約二ヶ月で、初日から一ヶ月ほど稽古日数が経った頃の台本です)

 踊る男、(A)より、出る。

女たち  ……?
踊る男 (女たちのテーブルを、じっくり見る)

 女たち、少し後ろへ下がる。

踊る男  (正面に向かって)……ウー・ヤァー・タァーッ! オーイ! 山の空気はキレイだなァ! ……(聞き耳をたて、じぶんできわめて小さな声でこだまを演じる)……
実子  トイレ行ってきなさい、笛、持って、
友子   懐中電灯、
南・愛美  はい、
友子  (南へ)なんかあったら、笛、吹くんだ。(南へ)頼むよ。
南   はい、

 南と愛美、(A)より、静かに消える。

実・友 ……?
踊る男 ……やまびこです。
実・友 ……?

 踊る男、実子と友子と離れる。

踊る男 ……やまびこは、山で発生するものとは、限りません。この都会の冷え切った寒い夜でも、声は背の高いビルの群にあたって、やまびこは発生します。……ヤッホッー! オーイ! 山の空気はキレイだなァ……、
友子  (ゆっくり、実子の背後へ隠れる)
踊る男  いま、ぼく、ひとりで立ってます……、
実・友  ……?
踊る男  友だち、いないから、やまびこの実験を夜中にしてるわけではありません。……わかって、もらえますか?
友子  (「どうしよう?」)
実子  (「成り行きにまかせれば、いいんじゃないんですか」)
友子  (「危ないようなら、逃げればいいんじゃん」)
踊る男  友だち、いる証拠、いま、お見せします。
実・友 ……?
踊る男 ……踊ります。
実・友 ……?

 変な奴が突然あらわれ、ビル群に向かってやまびこをし、それを自慢し、(口調は丁寧ながらも)友達のいる証拠に踊りをみせると訳の分からないことを言って、女性たちを引かせるという展開です。この場面の台本は、それから稽古を重ねて何回か直され、最終的に以下のようになりました。(女性陣にヒカル21才が加わり、五人になっています)

 静かに、踊る男(パジャマにスリッパ)、(B)より、出る。

女たち  ……?
踊る男  (正面に向き直り)…オーイ! 山の空気はキレイだぞォ! ……(聞き耳をたて、じぶんできわめて小さな声でこだまを演じる)……夜のビルの谷間も、キレイだぞォ! (こだま)

 女たち、静かに見ているしかないだろう、

踊る男  ……いま、ぼく、ひとりで立ってるね……、
女たち  ……(男の喋っている言葉の意味がわからない)?
踊る男  友だち、いないから、一人で立ってるわけじゃないんだ。……わかって、もらえるかな?
南   『トイレ、行って来ます!』 (一時的に避難するという暗号)
実子  笛、持って、行ってきなさい、
友子  懐中電灯、
南・愛美 はい、
実子  (ヒカルへ「あなたは」)あたしたちに、しっかり付いてなさい、
ヒカル はい、
友子  (南へ)なんかあったら、笛吹くんだ。マナミン、頼む。
南  はい、

 南と愛美、(A)より、静かに消える。

踊る男  ……友だちいる証拠、いま、見せる。……踊る。
女たち  ……?

 変更した点を挙げます。
・衣裳がパジャマの上下(で頭にネット包帯をかぶり、足に便所スリッパをはく)になった。
・ウー・ヤァー・タァーッ!(少年ジェットの、大声で敵を失神させるという技)が無くなった。
 当初は、カーディガンとブルマの姿で舞台へ駆けこみ大声を出す、という演技をしていましたが、なんだか見るからに変な奴すぎるんじゃないかと、稽古場(つまり、僕や演出の菅間さんや、他の俳優)が感じ始めました。かと言って、たとえばスーツの上下を着るのも面白くないと僕が悩んでいるところに、演出からパジャマのアイデアが出されました。それによって「見るからに変な奴」が、「どこかの病院からこっそり抜け出した、ちょっと頭のおかしそうな奴」というイメージを持った人物に変わり、僕もその衣装を着ることで、(与えられた役をやらされるのではなく、役を捉え返し自らやるようにして)舞台に堂々と立つための、手掛かりがつかめたように思えました。以前に菅間さんが言っていた、「俳優に『場所』を見つけてあげるのが、演出の仕事」という言葉をその時思い出しました。つづいて、変わった点をさらに挙げます。
・やまびこの説明が無くなり、口調がくだけた感じになった。
 都会で発生するやまびこの仕組みを教え、そんな実験をしているのは友達がいないせいではないと、自分のことを丁寧に語っていた部分が全てカットになりました。やまびこはやりっぱなしで、唐突に、友達いる証拠に踊ると言い出す風に変わったのですが、その方がより観客を、「こいつはいったい何者なんだ?」という懸垂状態(どう判断して良いか分からない、宙ぶらりんの状態)におけると言えます。以前に菅間さんが「観客をリードする、観客に考える時間を与える、というのが演出の仕事」と語っていましたが、稽古の終盤になってこの場面で大事にされたのは、観客をリードする(舞台に流れる時間の速度が、観客の観劇速度より遅延しない)ということだったと思います。

 僕の出た場面の冒頭部分しか書けませんでしたが、以上のように稽古の過程で、台本も演出も俳優の演技も、書き直していくというのが馬鈴薯堂の稽古です。「演出が登場人物の解釈を伝え、俳優が自分なりの演技で応える」という(おそらく一般的な)稽古の仕方には、演出と俳優がうまく噛み合えば、すぐに芝居が出来上がりそうな効率の良さがあると言えますが、それに反して馬鈴薯堂は、演出に対しては「役柄の人格を伝えることや、作品を統一することが、演出の仕事ではない」という考え方を、俳優に対しては「大切なのは(演技を)どうやりたいかではなくて、(自分が舞台で)どうありたいか」という考え方を持っていて、出来上がりをすぐに目指さず、より「選択力の強い演技」を見付け直そうとするような稽古をしているのだと考えられます。僕が馬鈴薯堂に出始めの頃に一番言われたのは、「最終的なイメージを先取りしない」ということだったと記憶しています。

●観客がみたいのは

 最後に、馬鈴薯堂が観客という存在をどう認識しているかを考えたいです。菅間さんの著書「中島みゆき論」に、「読者」について触れている箇所があるので引用します。

 読者が知りたい、みたいのはこんな《研究》のできそこないみたいな文章ではなく、たえず《現在》とは何なのかということだ。未知がいまどんな姿で彼女[中島みゆき:引用者注]の作品にあらわれているか

 「読者」を「観客」に置き換えて、考えて良いかと思います。「現在とは何なのか、未知がいまどんな姿で演劇にあらわれているか」をみたがっている存在が、観客だと捉えられています。しかし、演劇の現状の姿とは、もう(今までに色んな芝居が)やりつくされているような、また様々な(演劇以外の)ジャンルの表現に、食いちぎられ痩せ細っているような、さらに演技も「ぼくたちの<生活>様式とその習俗の感受性は現実社会の「効率性」という嵐の浸食からほとんど壊されてきてしまっている(菅間馬鈴薯堂通信 十二号)」とあるように、骨抜きにされつつあるような、未知の領域の見当たらない、未来を描けそうもない姿なのかも知れません。僕たちが向くことが可能な方向は、未来でもなく、現在でもなく、過去しかないかも知れないと考えると、哀しい気分におそわれます。けれども、「光合成クラブ·Ⅱ」の稽古終盤の頃、演劇の未来と未知の領域に関して、菅間さんは以下のように話していました。
「台本の言葉は未知へと開いているか、演技の身体や呼吸は未知へアクセスしているかを考えよう。『ネガティブな演劇の未来型』というものは、きっとある」