2018 1 菅間馬鈴薯堂の稽古Ⅰ

 五年程前からずっと、僕が出演させて頂いている、菅間馬鈴薯堂(「スガマ ポテトドウ」と読みます。以下、「馬鈴薯堂」と略します)について書きたいと思います。その理由は、馬鈴薯堂の芝居作り(稽古)の仕方が独特であると思えるので、その固有性について述べてみたいからです。一般的な稽古の仕方を簡単に言えば、演出家の伝えたイメージを、俳優が上手な演技で再現していく事が基本ですが、馬鈴薯堂は違います。演出の菅間勇さんが稽古中にした発言を、いくつか挙げてみます。
「俳優らしく喋ろうとしてはいけない。俳優でありながら、俳優である事を脱ぎ捨てることが大切だ」
「観客に見てもらうのは、自分の貧しさだ。堂々と下手でいい。<役>は後からついてくる」
「なるべく観客の印象に残らないような、『忘れちゃってもいい』という演技をする。『忘れないで』という演技にならずに」
 初めて馬鈴薯堂に参加した際、これらの逆説的とも言える発言に戸惑いを覚えたりしていましたが、それから何回か参加していくなかで感じとったのは、馬鈴薯堂の演劇という表現に対する、正統さのようなものでした。その僕の感じた「正統さ」について説明するため、以下に少し引用します。

 かように、代用の具としての言葉、すなわち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。(中略)
 言葉には言葉の、音には音の、そしてまた色には色の、おのおの代用とは別な、もっと純粋な、絶対的な領域があるはずである。(坂口安吾「FARCEについて」)

 僕は変わった人間なんかじゃない。
 本当にそう思う。
 僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。(村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」)

 馬鈴薯堂の稽古に参加して、僕の受けた印象を簡潔に語ると、一般的(平均的)ではないけれども、演劇の純粋な領域に、ストレートな姿勢で触れようとしている、というものです。僕の主観的な解釈や理解力の不足で、菅間さんの演劇観と相違することを書いてしまう可能性もあるのですが、これから稽古の具体的な中身について、述べていきたいと思います。

●<反自然>ということ

 菅間馬鈴薯堂通信(公演の際に発行されているパンフレット)に、以下のような文章があります。

 芝居は<反自然>な行為だ。描く必要もないのに絵を描いたり、書く必要もないのに小説や詩を書いたりすることとまったく同じで、ただやってみたいからやっているだけだ。そこにどんな社会的な意味づけもできない。(第二十号)

 「<反自然>こそ表現」という考え方が述べられています。この場合の「自然」とは、現実世界の秩序通りのもの(日常的なリアルさ)のことです。稽古で「自然を乗り越え、不自然を楽しむように。もっとアンチリアルに」と僕はダメ出しされた事がありますが、言い換えれば、「自然」にやってては何でもなくなってしまうから、「自然」に工作を加えるやり方が必要だということです。更に言えば、その(<反自然>への)「工作」こそが、「人間の表現行為」ということです。<反自然>の具体例として、高村光太郎の彫刻やピカソの絵画を菅間さんは挙げていました。僕が個人的に思い浮かんだのは、子供の頃に好きだったアニメ「トムとジェリー」で、尻尾をハンマーで殴られたトムの目玉が飛び出たり、樽に押し潰されたジェリーの全身がペチャンコになったりと、不自然(アニメ的なデフォルメ)を楽しんで見ていました。彫刻、絵画、アニメとはちがう、演劇という表現における<反自然>とはどういうことかと、改めて考えたとき、まず把握するべきは、その表現行為がなされる舞台についてだと思われます。馬鈴薯堂は<舞台空間>というものを、どう捉えているかをみていきたいです。

●<舞台>とは

 <劇>表現の、現実社会への安易な加担と介入はまったく無効だ。記述され、演じられる世界は、現実世界での直接的行為とはまったく異質な別世界だからだ。(菅間馬鈴薯堂通信 第二十一号)

 馬鈴薯通信のほか、稽古中に発言された演出の言葉をいくつか挙げます。
「現実の秩序を受け入れなくていい。たとえば(現実世界では)右という方向感覚が、舞台では、上という方向感覚に変わってしまったって構わない」
「現実社会では一番汚らしく醜いとされているものが、舞台上では一番美しいものとして、表現(蘇生)させることができる」
「舞台上は、異界(来世などの別世界)とつながっている」
 <舞台>とは、この世の中の秩序とはちがった、別の秩序をつくることが可能な、リアリティー(現実感)から解放された空間だと捉えられています。世の中の秩序を破るようにして、何でもやって良いという所が、舞台上であるとも言えます。しかし逆に言えば、現実の秩序や常識に頼ることのできない、無根拠で、不可思議な場所であるとも考えられます。以前に読んだ本から少し引用します。

 かれ[俳優:引用者注]の身につけている衣裳や、手にもっている道具は、リアリズム演劇のばあい日常つかわれている衣裳や道具とまったくおなじものであり、非リアリズム芸術のばあいさまざまな様式的な衣裳や道具であるだろう。しかし、いずれのばあいも、舞台のうえに存在しはじめたとき、その本質は、現実の衣裳や道具ではない、あるべつのものにかわっているのだ。それは舞台のうえの衣裳であり道具だ。(吉本隆明「言語にとって美とはなにか・構成論」)

 数年前に出演した馬鈴薯堂の芝居で、僕は財布を使う場面があったのですが、その財布(道具)の扱い方でダメ出しをされました。「小道具(をどう使うか)は台詞と同じだ」というもので、僕が実生活と同じような扱い方をしていて、「<舞台>のうえの財布」という扱い方をしてなかったからです。そしてまた、その舞台上の道具と同じように、俳優も舞台に登場すれば、現実の人間ではなく「<舞台>のうえの人間」として存在するのだと言えます。俳優は誰でも、舞台に立つ事に怖さのようなものを覚えた経験があるはずだと思いますが、その怖さは言うなれば、まるで宇宙空間に放り出されてしまうような、孤独や不安というふうに形容できるかと思います。しかし俳優は、舞台に立たないわけにはいきません。なので、その立ち方が<演技>であると考えられ、更に言えば、そんな空虚でおっかない場所に、消極的ではなく、堂々と立つことが、<演技>することなのかも知れません。馬鈴薯堂が<演技>について、どう考えているかをみていきます。

●<演技>について

 演技するうえでの心がまえとして語ったと思われる、演出の言葉をいくつか挙げます。
「物語を真面目に所有する事から解き放たれる。非所有に。もっと不真面目に」
「芝居らしさではなくて、自分の(年齢などの)実質で、観客と出会う」
「自分よりも、『役柄』の方が大きくなってしまっている。『役柄』(の記号的意味性)から出なきゃいけない」
 俳優は物語を観客に伝達するための存在ではないということが、主に語られています。補足すれば、「そんな演技では、台詞の日本語の意味に救われているだけじゃないのか?」と僕はダメ出しされた事がありますが、つまり台本上の役割を、うまくやり抜くというふうに機能してはいけないと言われたわけです。では心がまえの次に、演技の実践的なことについての言葉を挙げながら、どう実行していくかをみていきます。

・自分に言う
「台詞をなるべく他人にあげない。台詞の基本は、自分に言う。自分に言って、自分を深める」

 (馬鈴薯堂に出演する以前に)ハッスルマニアという劇団に僕は出演したのですが、その稽古を菅間さんが見に来た事があり、僕の出る場面の稽古を見終わった後に「そんなに律儀に相手役に、台詞を当てようとしなくて良いんじゃないですか?」と声を掛けられました。その台詞は独白のような言葉ではなく、相手と会話する言葉だったので、そう言われて僕は驚いたのですが、いま考えればその時僕は、台詞の言い方を自分なりに考え、それを相手に言うためだけに、舞台に立とうとしていたのかも知れません。「自分に言う」とは一人きりで、自分自身に問うように(あるいは自分に怒るようにとか、自分を褒めるようにとか)声を発する行為です。そしてそれによって舞台のうえで、自分の存在を実感しようとする行為であるとも考えられます。更に演出の言葉を挙げれば「声を出して、自分の存在の証しを探る」「台詞の音(声)のなかに、自分を宣言する」ということが、「自分に言う」ということです。もちろん相手にきちんと当てるべき台詞もありますが、どんな台詞にも「自分に言う」がうら貼りされていると考えられ、そしてそれがもし無ければ、相手を本当に動かす力感を持った、台詞にはなれないのかも知れません。

 じぶんを深く見つめる態度とその度合いに応じてしか、他者はじぶんを振り向いてくれないものだ(菅間馬鈴薯堂通信 第十二号)

・台詞の「音」
「台詞は『音』に意味と価値がある。台詞は『音』でしか表現できない」

 馬鈴薯堂の稽古のなかで、一番多いダメ出しは、音(声)に関することです。分かりやすく例を挙げれば、「うるさいから静かにしろ」という、相手を黙らせる台詞があるとして、この場合、「うるさい」等の情報を受け取って相手は黙ると考えるのではなくて、その台詞を発する音を聞いて、相手は黙ってしまうのだと考えて、その音は一体どういう音かを、探していくということです。もし「元気だして」という台詞がある場合なら、相手をちゃんと勇気づけるのは、どういう音かを探していきます。建築現場で大工が合う釘を探すように、俳優は合う音を探していくと考えて良いのですが、これらの場合に肝心なのは、怒りや優しさといった感情を描写するような(一般的なイメージをなぞるような)音にならないことで、なぜならそうすれば、(典型的な解釈による)台詞の内容の説明に過ぎなくなるからです。探すべきは、自分の深い所から出てくる、実感のこもった音だと考えられます。また、この台詞の音に関しては、そのうえに相手との関係や、私的か公的かといったシチュエーションの面からも、考察がされていきます。以下に引用します。

 対幻想[一対の男女から進展していく、家族や親族が問題とされる領域:引用者注]を本質とした場合、女性の声の出し方は、母親の声か姉の声か妹の声としてある。男性の声も、父親か兄か、弟の声だ。これは、ひとりのある女(男)優さんが母(父)の声をもっているということではない。発声は、じぶんと対象との関係の表現だから、ある場合には、母親の声としてあり、違う対象(場面)では姉の、あるいは妹の声としてある。しかもこの三種類の声は、ひとりの人間のなかに総合的に存在していて、場面に応じて関係の表現として瞬時に峻別され、使いわけられている。(中略)
 もうひとつ、違う声の出し方がある。それは共同体の一員、社会の構成員としての声の出し方[役所に行ったときのような、あるいは職探しで面接に行った際のような声の出し方:引用者注]である。(菅間馬鈴薯堂通信 第八号)

・生活感性
「頭ではなく、自分の生活の足下から、演技のイメージを持ち込んでくる」

 前章で「探すべき音は、自分の深い所から出てくる、実感のこもった音」と書きましたが、その音は、自分の生命感をふくんだ音と言い換えても良いかと思います。当たり前の事を書きますと、自分の生命を明日へとつなげていくことが、生きていくことだと言えます。そして、生きていくということは、自分を囲む小社会のなかで日々活動し、暮らしていくということです。なので、音に自分の生命感をのせるための表現方法は、「じぶんの演技の領土とその拡大の方法を、たえずじぶんの足元の生活空間へ下降的に求めて(菅間馬鈴薯堂通信 第一号)」という、自分の生活感性をあらわしていくやり方だと考えられます。生活感性とは以下のような、暮らしのなかで感受している、自分だけの思いです。
 
 どんな裏通りを好んで歩き、どんな八百屋で野菜を買い、どんな夕食を作り、どんな洋服を好んで着て、どんなお店でお茶を飲み、友だちとどんな会話を楽しみ、どんな願いごとを胸に秘めているのか(菅間勇「中島みゆき論 その愛と歌の行方」)

 そうやって自分自身の生活音を探していくわけですが、しかしそれが日常生活の再現にとどまっては、さきに述べたような「自然」なものになってしまいます。必要なのは日常の生活音を(<反自然>に)加工し創造することで、表現すべきは、意識的な普段通りの自分と言うよりも、普段は眠っている、無意識下にある本当の自分だと言えます。浅瀬で水をすくうように、日常から演技のイメージを拾い上げるのではなくて、日常の奥行きへと手を伸ばし、現実にひそむ深淵へ、いりこんで探り当てることが必要であるかと考えられます。

 以上、<演技>についてみてきました。そのなかで、物語を所有しないとか、台詞の内容を説明しないとか、台本に対して距離を取るような言葉があったと思います。しかしもちろん、台本なんぞどうでもいいと考えられてるわけではありません。馬鈴薯堂が、台本(の物語性や台詞)にどう取り組もうとしているかを次にみていきます。
(菅間馬鈴薯堂の稽古Ⅱ につづく)